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- Interview -


奇天烈トゥインズ (15分トリオ)2011年

「とにかくカウントでなく−間合い−で合わすユニゾンにとことん拘り、心も通じているかの如く振る舞う一卵性双生児の様に動く作品。その間合いの妙が、いつしか見るものの身体を何処か異次元の世界へと誘う。」


リバイバル (60分ソロ)2010年

ダンス画像

「ダンスボックス主催企画。オーディション組と選抜組から構成。ソロ作品の新たな可能性の示唆となったソロ作品群。
Aプロ・下村唯(不条理の天使)/イム・ジョンミ(スペース4.5)/佐藤健大郎(ミューザー) 
Bプロ・森山未來(不条理の天使)/西岡樹里(スペース4.5)/佐藤健大郎(ミューザー)」 
Cプロ・ヤザキタケシ(スペース4.5/不条理の天使/ミューザー)1時間3本勝負

 

 

 

 

 


ミューザー (20分ソロ)2010年

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「森羅万象全てはエネルギーを持ち、エネルギーは振動を持つ。私達の存在も生命活動と共に振動をしている。地球上の全ては振動に溢れている。音も然り。身体と音も密接に関わりあっている。・・・と云う事で今回は音にこだわり音と戯れようと思っております。自信はありませんが、とにかく楽しく音と戯れる事が出来ましたらお慰み。勿論!常識的な音は・・・ない!」

 

 

 

 

 


フリボラスパーソンズ (20分デュオ)2010年

「無音の時には自らの感じる音を通して踊り狂う二人の男。その後祭り囃子の音につられて舞台センターに来るとそこには情景描写のはっきりした曲がある。その曲にのり踊る必要性を感じずじっと佇み心でその音を聞く二人。心に響くとその感情は自然に顔に浮かび上がる。いつしか曲は止み、又無音に戻る。そして又祭り囃子の音。情景描写たっぷりの音と無音とを交互に使い、音の使用法に問題を投げかける笑劇のデュオ作品」


バンピーカーニバル (20分トリオ)2010年

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「生アコーディオンとポップダンスを取り入れたパフォーマンス的要素の強い楽しい作品。ラストの「瀕死の白鳥」を生のアコーディオンに乗せポップダンスで白鳥を真剣に舞う姿は見るものの涙を誘う?・・・かも!」

 

 

 

 

 


めくるめく世界 (15分4人)2009年

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「4人のダンサーでシンメトリーの動きに徹したダンス小作品。万華鏡の世界を覗き見る様な感覚を呼び起こす立体曼荼羅。形が変化する事の楽しさ不思議さを見るものの右脳に働きかける作品」

 

 

 

 

 

 

 


シンデレラ? (15分トリオ)2008年

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「バイオリニスト柴田奈穂とのコラボレ−ション作品。ヒール高20センチの靴を落としたのはだーれ?拾った者も何故か気になるヒール高、思わず履いてしまい別世界へと誘われる。ウィットとペーソスに溢れたシンデレラ」

 

 

 


クルクルクルクルクルルルルーン (15分ソロ)2007年

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「メロディーパイプを振り回しながら、加工したメロディーパイプの音と共鳴させ会場全体を風の国にしてしまう。気ままに吹く風に翻弄されながらも、自由に生きていく様を表現した小作品」

 

 

 

 

 

 


蛸男の憂鬱 (20分ソロ)2006年

『in the Octpus garden-柔らかな夜に蛸は-』からのスピンオフソロバージョン


Weightless days (60分デュオ) 2006年

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「通常ダンス作品は照明機材を用い、作品に色づけする。しかしこの作品に於いて照明機材は一切使用せず、アンジェラとラファエロの作る白と黒のシンプルな世界に絡み踊る。またコンピューターという時代の先端のテクノロジーから生み出される彼らのグラフィックアートには通常生身の物は用いられないが、そこにダンサーの身体を置く事で命を宿した生物の如く動き回る生命体を現出させる。この作品はこれからの人間とコンピューターとの共生を示唆しているものとなる可能性を秘めていると思われ、この可能性を多くの人に感じてもらいたい作品」


in the Octpus garden –柔らかな夜に蛸はー (60分ソロ)2005年

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「文化庁創作奨励賞佳作受賞者−森嶋也砂子−書き下ろしソロパフォーマンス。怪人蛸男役に生き甲斐を感じ没頭している男の悲哀を、芝居と踊りと歌で表現したシュールな一人ミュージカル」

 

 

 

 


ブルータイム (60分トリオ)2004年

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「夜と朝」「意識と無意識」「動きと動き」「呼吸と呼吸」など、二つのもののはざまに存在する。「表現出来ないあいまいさ」をもちながら、ないとなりたたないもの「目や触覚で認識出来ないが確実にあるもの」空気・音・気(感情)など・・・。そんな日本独特の「間」という概念をダンスで表現。3人のダンサーにより繰広げられるこの作品は、2人の間に挟まれる事で生まれる場に、それぞれがそれぞれの時間を体感する事で生まれる動き(ダンス)で構成されている。

 

 

 

 

 


ONE WAY (45分デュオ)2003年

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その名の如く2人のダンサーが舞台を右から左へ(一方向)45分かけて移動するダンス作品。これ以上ないシンプルなコンセプトの中で繰広げられる巧妙で奇天烈な時間・空間。二人の駆け引きが新たなる世界を作り上げ、同じ方向に進んでいるにも関わらず何重にも見えてくる道。観るものの想像力を掻き立てる多彩な一本道である。

 

 

 

 


スペースX (60分トリオ)2002年

スペースX画像

「スペースX」は1999年に創られた「スペース4.5」白テープシリーズを元に、拡大して創作された作品です。作品は2種類のソロダンス・ひとつのソロパフォーマンス・2種のデュオで構成されます。
ひとりの人間からこぼれるように出てきた時間と空間、それが現実的な空間から虚構の空間へと変容していく、そして時が経つにつれひとつの時間の流れがいくつもの流れに分かれる。 変わることのないシンプルな白い四角いエリアは後半、観客のイマジネーションにより、より深く、拡大され、捩られていく。そして物語はひとりの人間の中に消えゆくように帰結する。

 

 

 

 


HAN☆PUKU (70分ダンサー10人)2001年

(アートコンプレックス1928)この作品は歩く事・見る事・触る事・普段意識せずしている行為を意識する事で、 ただ無意識に流れて行く時間に何らかのエネルギーが生まれてくるのではないかという意識の元、創作を進めました。一つ一つ繰り返すにしても、それは「一期一会」一つ一つが違ったものであり、一歩の繰り返しが道になり世界になる。 一日の繰り返しが一年になり一生になる。一つの行為、或いは気持ち・或いは物に対して、 どれだけの愛情を注ぐ事が出来るのか、又その込めた愛情の繰り返しの先には何があるのか、 その事がどういう風に舞台の上に立ち現れてくるのか・・・・・

 


ケッテンショウキ(一抹の人間昆虫記) (30分ダンサー3人・アクター1人)2001年

ダンス画像_ケッテンショウキ(アートコンプレックス1928)昆虫は脱皮する事によって物理的に美しい容姿と自由な身体を身につけ、生をおおらかに全とうする。 逆に我々人間は脱皮することによって物理的な容姿や自由は必要としなくなり、すべて余分なものがなくなった時完成され人生を全とうする。 この作品は一つの試みとして「起承転結」を「結転承起」と人間が脱皮していくさまを逆から進んでいくという4部構成で進められます。
虚栄を脱ぎ去る「第一の脱皮(ドラッグクイーン姿)」、肉を脱ぎ去る「第二の脱皮(内臓人間姿)」、 自意識に縛られた自分を脱ぎ去る「第三の脱皮(ソロ)」、 目に見えない自分にとって大切なものが具現化してくる 「第四の脱皮(デュオ)」。普遍的なシリアスなテーマ(輪廻転生)を、ダンスとユーモアを融合させ、 エンターティメントとアートの絶妙なバランスを成立させた作品。


スペース4.5(タナトス小僧のエロスな気分)(25分ソロ) 2000年

隔離された場所に投げ出された男の刹那。
シリアスでコミカル・人間のどうしょうもない弱さや馬鹿な部分に愛情こめ、アヴストラクタルな形で踊られた作品。 スペース4.5(レッドトリッパー)が陰の場であるとするなら、このスペース4.5は陽の場である。


ici(ここ) (18分ソロ) 2000年

さまよい続ける魂の行方・さまよい続ける肉の行方・さまよい続ける骨の行方
確かに自分はここにいるはず、いや或いはいるつもりなのか?
不確かな物体である自分
さて、いったい私の立つ場所とは?


U&K (30分ダンサー5人・ギタリスト1人) 2000年

イソップの童話「うさぎとかめ」を我々流に再検証してみました。わき目も振らず只ひたすらにゴールを目指す真面目で律儀なかめさん。
いい天気、いい景色に酔いしれ余裕のあまり昼寝にこうじるうさぎさん。果たしてこのレースに勝利する意義があるのでありましょうか?
周りの状況を見られるうさぎさんは本当は優しいうさぎさんで、かめさんのひたむきさに打たれ、わざと寝過ごし負けたのかもしれませんし、 或いはたんなるうっかり屋さんだったのかもしれません。あなたならどちらの生き方選びます?
以上のレースの模様は劇場・ダンスにて実況されます。


エスパス(お茶の間)(75分ダンサー11人) 1999年

ダンス画像_エスパスここはある大家族が住んでいる家です。不思議な事にここの住人は押し入れから出入りする事が慣わしになっています。 後ろの方で少しだけ口を開けた押入れの隙間の向こうには何があるというのでしょうか。 裸電球の灯る部屋に一人また一人と押し入れから出てきます・・・これはスペースシリーズのデラックスバージョンです。 四角く区切った小さなエリアで男と女・男と男・女と女・男女入り混じり4人・8人と様々な組み合わせで繰り広げられるダンスバトルです。 見ようによっては妖怪達の不気味な家族会議に見えるかもしれない異様な世界です。(撮影:福永 幸治)

 


スペース4.5(レッドトリッパー)(20分) 1999年

自分の身体をメジャー代わりに使い、白いビニールテープを用いて床に白いエリアを創るところから始まる。そこは閉塞された狭い空間ですが、ここには喜怒哀楽様々な感情が入り混じった無限の広がりを感じさせる空間があります。ただでさえ限られた舞台空間の中に、もう一つ絞り込んだ場創り淡々と動く。これは自分に課した一つの実験場でもある。限られたスペースの中、雰囲気で見せるのでなく動く事に重点を置き、最後までとどまることなく踊り続ける。
1999年6月 芸術祭典・京 京都国際交流会館プレミア
時がどのような数字を刻もうが、私はこのスペース4.5(四畳半)で生きてきました。狭い閉塞された空間ですが、 ここには喜怒哀楽様々な感情が入り混じった無限の広がりを感じさせる空間があります。ただでさえ限られた舞台空間の中に、 もう一つ絞り込んだ場を造り淡々と踊る。これは自分に課した一つの実験の場でもある、限られたスペースの中、 雰囲気で見せるのでなく動く事に重点を置き、最後まで止まることなく昇華に至る。


スペース6 (25分ダンサー4人) 1999年

ここは四角く区切った小さく狭い人工的なスペースではありますが、見方によっては我々にとって、 かけがえのない無限の広がりを持つ広大なスペースと化するのです。ここでは、喜怒哀楽に代表される様々な感情と肉体と が混沌として存在しています。この狭いスペースの中で、四つの身体と四つの感情を攪拌する事によって、 この空間に何が化学反応として立ち起こってくるのでしょうか。基本的にはスペース4.5で踊られた場とダンスを、 四人で踊るとどうなるのかという発想から生まれた作品。


トリップ [バニョレ国際振付賞ノミネート作品] (25分ダンサー4人) 1998年

一人一人がそれぞれの空間を移動している。4人が出揃った時から、時間と空間が錯綜しだす。 ある時は時間を共有し、またある時は空間を共有する。そしていつしかお互いの心に触れ合い共に歩き始める。 肉体のダイナミズムの中に、内的心理描写を盛り込み、自分と他人との間を行きつ戻りつする人の心の葛藤や、 人が空間をさまよい錯綜する様をユニークな動きで描いた作品。


セキバク (30分ダンサー3人・エキストラ数名) 1997年

感情を抑えれば抑えるほど、サディスティックに暴力に走って行く男。はっきり「NO」と言えず、 ズルズルと男の言いなりに落ちて行く女。ただひたすらに男の後を追い、ジレンマに落ち自暴自棄になる女。 悲しみが衝動を起こしてしまう。襲われた女も悲しいし、襲ったほうも悲しい。他人とのコミュニケーションが薄くなった今日、 自分をどう表現すれば良いのかわからない3人の若者に焦点をあて、ストーカーを題材にし、言葉では言い表せない潜在的な感情を、 暴力的な二組のダンスで表した作品。


不条理の天使 (20分ソロ) 1995年

あらゆるものを手に入れたいと望む一人の男が、欲望をかなえるたびに向かって行く場所は天国か地獄か。 マイムとダンスをフュージョンした形でアルチュール・アッシュの曲にのせコミカルに演じられた作品。


フィッシュダンス (15分デュオ) 1994年

川のせせらぎ・列車の汽笛・遮断機のノイズ・雨の音・風の音・虫の音
田舎風景と都会の雑踏の音を絡ませ、その音情景の中に自分自身を置き、 ドキュメンタリー風に感じるままに動きを作り上げた記念すべき第一作。


レクイエム (10分ソロ) 1994年

叙情的なピアノの調べ、中原中也の哀しくノスタルジックな香りのする、刹那的な男の物語。この音と詩との出会いからインスピレーションを得、浴衣と下駄で一人の死へ向かう男の哀しみを、淡々と演じ踊る。


 

Review

 

音楽舞踊新聞 2011年4月11日号

新しいダンスへの予感を再現~90年代の作品を複数のダンサーがリバイバル上演~「Revival ヤザキタケシ」

竹田 真理

 大変意義のある公演と思われるため旧年中のことではあるが記しておきたい。
 関西ダンスシーンの先駆者的存在として踊りつづけてきたダンサー・振付家ヤザキタケシの90年代の作品2本と新作1本、計3本を上演するという企画。踊るのはオーディションで選ばれたダンサー5名、及びヤザキ本人である。
 コンテンポラリーダンスにおいて過去の作品の再演は珍しく、しかも振り付けたアーティスト以外のダンサーによって踊られる機会は極めて稀である。作品の再演とレパートリー化が始まるとき、日本のコンテンポラリーは成熟に向かうものと考えられるが、今企画はまさにそれを予感させる内容だった。
 ヤザキは89年にニューヨークに滞在、アルビン・エイリー・アメリカン・ダンス・センター及び同舞踊団で経験を積み、92年に帰国後は京都でスーザン・バージュ率いる日仏共同プロジェクト「MATOMA」に参加する。MATOMAではモンペリエ、アビニョンなどフランスの主要フェスティバルへ招聘され、独立後も国内外で公演を重ねてきた。その軌跡はちょうど時代がモダン、ジャズ、舞踏など従来のジャンルから、後にコンテンポラリーダンスと呼ばれる新しいダンスの出現を予感した時期に重なる。
 プログラムは、99年作『スペース4,5(レッドトリッパー)』、95年作『不条理の天使』、世界初演の新作『ミューザー(沈思者)』の3本立て。キャストを違えてA、B、Cと3つのプログラムがあり、『スペース4.5』をイム・ジョンミ(Aプロ)と西岡樹里(Bプロ)、『不条理の天使』を下村唯(Aプロ)と森山未來(Bプロ)『ミューザー』をA、Bとも佐藤健大郎、そして最終Cプロでは3本すべてをヤザキ自身が踊った。
 『スペース4,5』は、ヤザキによるオリジナルではまず自分の身長を尺にして白いテープを床に張り、正方形のスペースを作るところから始まる。一歩踏み入れれば自ずと身体がうごめき出す踊りのため特別な場所、しかしどこにでも設定しうる普遍的な場所であり、踊り手の資質のすべてが明らかにされる空間でもある。ヤザキの場合、動きは自然発生的で合理性があり、身体の本質をがっしりと捉えた運動性の高いムーブメントに本領を発揮。視線を高く上方へ向けるだけで、ダンスへの敬意と憧れ、踊りを人生の術として選んできたダンス・アーティストのシンプルな生き様が滲み出る。ヤザキの代表作に数えられる作品だ。
 この「スペース」のコンセプトを、イム・ジョンミは大胆に再構成してみせた。白いロープを用いて縄跳びの大回しをしたり、壁に貼り付けたり、正方形の空間を自在に変容させる。踊りには独特のアクと官能を
湛えてずんとした存在感があり、完全にイム・ジョンミ色のパフォーマンスとなった。

 若手の西岡樹里はオリジナルに沿った構成。しぐさと振付との境目を曖昧にしたまま動いているが、繭玉を腕に転がすような様子など納得の行く動きを掴むと生き生きとしたリズムが生まれた。
『不条理の天使』はマイムを多用したエンターテイメント色の濃い作品で、欲望をかなえようとモーレツに働く男が更なる望みを手にせんと上り詰めていく先に破滅が待っている。悲劇でありながらコミカルな仕立てで、80年代のニューヨークのヒューマンな味わいと健全な楽観主義を残しており、ヤザキの一面がよく出た作品だ。ほぼ原作どおりの振付で踊られ、下村唯は感情を控えめにしたクールで都会的な解釈、森山未来は炸裂するフォルムが爽快で華のある踊り。『ミューザー』を踊った佐藤健大郎はヤザキのカンパニー「アローダンスコミュニケーション」で共に活動してきた人で、今作品でも創作に大きく貢献した。喉の奥から声を吐き出すようなパフォーマンスなどが時代が下がってダンスの枠が大きく広がった現代ならではのアイデアだろう。佐藤の即物的な質感に対して、ヤザキでは日常の隣にある異世界の扉が開く。
 出演者のひとり森山未來は神戸出身の若手俳優で、阪神淡路大震災がテーマの映画にも主演しており、劇場のある神戸市長田区とは偶然以上の縁が感じられる。1月の震災の日が近い街には上映を告げるポスターも見掛けられた。大手資本系の人材とインディペンデントのダンサーたちの競演、そこにさらに様々な文脈が交差した、記憶に残る公演だった。(12月4日、アートシアターdB 神戸)


「明倫art」2011年2月号(No.129)

「Revival/ヤザキタケシ」
『スペース4.5』『不条理の天使』『ミューザー』A・B・Cプログラム
 2010年12月4日~5日 ArtTheater dB神戸

その男、ヤザキタケシ。

関西コンテンポラリーダンスのパイオニア、ヤザキタケシ。その初期代表作と新作(全てソロ)を一挙上演する「Revival」は、ダンサー・振付家としての集大成を示すと共に、コンテンポラリーダンスの在り方を問う、意欲的な公演であった。

 『スペース4.5(レッドトリッパー)』(1999年初演)は、四畳半サイズの等身大の空間の中で淡々と動きを重ねていく抽象的でフィジカルな作品。演出面で大胆なアレンジを披露したイム・ジョンミ、ミニマルな所作からしなやかに脈打つ能動的なエナジーへの変貌が印象的な西岡樹里。測量的な動きから「面」への意識を強く感じさせた女性2人に対し、ヤザキは、力みのない流動的な動きの残像で身体の輪郭を溶かすような、トリップ的(遊覧的・幻覚的)な「空間」を立ち上げた。

 『不条理の天使』(1995年初演)は、アルチュール・アッシュの頽廃的な楽曲にのせ、「欲望の果ての終末」を暗示するシニカルな作品。長身で痩身、大きな手足と口を誇張した風刺画的表現が鮮烈な下村唯、稀代の演技者、森山未來は、整った顔立ちを惜しげもなく歪めるマイムと洗練されたダンスで圧倒的なスター性を見せた。そして、ヤザキ本人によるアンニュイな原版。音楽・振付・世界観の厳密さがかえって三者三様の表現を引き出し、キャスティングの妙も冴える。

世界初演の『ミューザー(沈思者)』は、森羅万象のエネルギーを音と身体の戯れで描くコンセプチュアルな作品。「ウィーン、ガシャン」といった効果音を伴って動く姿は男の子の一人遊びのように微笑ましい。純朴な佐藤健大郎と悪戯なヤザキは兄弟のような対比を見せ、音を操っているのか、音に操られているのか、そのどちらでもあるのか…観客の感覚をも撹乱する刺激的でコミカルな作品となった。

 「生きることの普遍性」と「フィジカル・シニカル・コミカルな創作」を標榜するヤザキの魅力は、そのコミュニケーション・パイプの太さにあるだろう。観客を「つかむ」ために、明解なコンセプトやコミカルさは有効である。緊張がほぐれ距離感の縮まった観客を懐に、フィジカルなダンスそのものの魅力へと、あるいはシニカルな思弁的世界へと、一気に連れ去ってくれる。そこにあるのは、舞台と客席が「瞬間を共有する」極めて「コンテンポラリー(con+temporary)」な関係性。日本では珍しいスタンディングオベーションの大喝采が巻き起こったことは、その証明である。

普遍性と同時代性の境界をどのように踊り続けていくかに対する実験でもあった本公演。旬なダンサーの起用と包容力ある作品性によって、過去作品が鮮やかに甦ったことは、コンテンポラリーダンスが「新しさ」の追求に終始する一過性の潮流ではないことを期待させる、悦びに満ちたものであった。身体を媒体としてリアリティの共感を求める姿勢は、いつの時代も変わらない、ダンスの原動力なのだから。

(5日観劇)

関 典子(せき のりこ)神戸大学大学院専任講師 舞踊家 振付家

 


 

「ブルータイム」フランス公演の批評

Festival Mimos Perigueux
Un autre regard
2004/8/Aug

 

「ブルータイム」でヤザキタケシは光と影、むき出しの姿とユーモア、そして日本文化の神秘的なコンセプトでもある我々を取り囲む「枠」を見せた。ヤザキによるとそれは全てであると同時に何もない、あるいは記憶であるかもしれないものである。目には見えないが確かに存在する「気」として、人と人とがエネルギーを運び伝えていく。
時空間に昼と夜の境目というものがある。はっきりと目にすることはできないこの微妙な境目は、作品の中で4枚のすだれ、動きに合わせて見え隠れする巧妙なライティング、3人のダンサーの身体の対話という非常にシンプルなもので表現される。繊細な音色と電子音が混ざりあったクロダオサムの音楽に並んで用いられるのは、ベートーベンのソナタと栄光の60'sミュージックである。ダンサーでもあるヤザキは「スペース」で、畳や日本家屋の狭い空間がダンスの場になると共に、世界を見る、そして見せる空間にもなり得ることを気づかせてくれる。京都とパリを行き来する世界、西洋の価値観と日本文化の混和は観客をヤザキの役を演じてみたいような気に駆り立てる。視線を解き放つ時、受け身は行動へと変わる。
                             By Jocelyne
SAUVARD


P.A.N.通信 Vol.41掲載


■恋してるみたいなダンス
上念省三<関西国際大学コミュニケーション研究所>

 ヤザキタケシ率いるアローダンスコミュニケーション(ADC)は、京都府南部にある城陽市の文化パルク城陽で、まず6月23日に「HAN☆PUKU」の公演を行った。これは以前Art Complex1928で上演した作品で、 率直に言うとその時にはいささかまとまりを欠いた寄せ集め的な作品のように思えていたのだが、今回はうまい具合に剰余と思えた部分は刈り込まれ、メリハリがついてカッチリとまとまったように思えた。
 さて、本稿でADCを取り上げようというのは、この公演が単独の公演にとどまらず、ワークショップ生募集のための一つのプレゼンテーションであったことを面白いと思ったからだ。 この公演で20名のワークショップ生を募り、10回のワークショップを経て、7月21日に同署で発表公演「京の真夏の運動会」を行うという、1ヶ月の時間はどのようなものであったのか。 公演のチラシに「『コンテンポラリーって何やねん?』と言われる方は」まず6月の公演を見ろと書いてあったが、ジャズダンスやバレエの経験はあっても、コンテンポラリーに接したことのない多くの人には、 映像+ノイズで流れを断ち切ったり、美しい動きをあえて崩し壊したり、あえてみっともない動きを見せたりといった「HAN☆PUKU」は、たいそう新鮮だったろう。 また、ヤザキや松本芽紅見の<狂異的>(造語)でグルーヴィな動きにも、度肝を抜かれたことだろう。
 「京の真夏の運動会」は、自由なおしゃべりからそれこそ運動会の入場行進、威勢のいい掛け声と、楽しく祝祭的に始まった。メンバーの表情がイキイキしていたのが何よりである。 バレエなどのダンス経験のある人も多かったようで、動きにキレのある人も散見された。動き自体はシンプルなものが多かったが、段取りの指示も適切だったようで、モタモタしたところがなく、見ていて心地よかった。
 印象に残ったのは、中盤でヤザキと松本が見せた男女のコンタクトのせつないような表情の提示だ。2人の男女のゆらぎや同調が、恋のスリルのようだったし、去りぎわの視線の交差も熱かった。それに続いて、 全員が集団の中で自分の相手を見出し、手を振ったり微笑を交わしあったりするところでは、身体がふれあうという初源的なコミュニケーションの重みが、心のゆれにつながっていくことを直接的に見せられ、 このようにシンプルなコンセプトによって、意外なほどに大きな感情のあふれが見られたことを、とても貴く思った。
 この一連の流れは、城陽市の外郭団体である財団法人が中心となって進めたようだが、このような形で多くの人に、ダンスがまるで恋みたいにドキドキするものであることが伝わったことが、何よりよかった。


REVIEW

上念省三

JAMCI通信97年6月号より

今年のアルティ・ブヨウ・フェスティバルは、まずヤザキタケシ&彗星舞遊群「トリップ」(二月八日)が記憶に残ることだろう。 ダンスがどこまで身体のダイナミズムを鮮やかに見せながら、痛快なエンターティンメントでありうるかの極限を示した二十分間として。 スピーディで切れ味鋭い動きは、人間の身体の鮮やかさを隠すことなく開示してくれたし、行進曲に合わせたユーモラスな動きは美しい顔立ちのクールな表情とも相俟って、会場を爆笑させた。 ヤザキの成功は、このようなフェスティバル…二時間余の間に数グループが次々と上演する…という形態の中で、自らの持つ属性の中から何をどう切リ出し、どう見せていくかをしっかり把握できていたことに負うと言っていい。 その切り出しの鋭さによって、ダンサーたちの動きにも思い切りのよさが生まれ、特に田村博子を他のユニットにおけるよりもずっと美しく鮮やかに見せたことは、特筆に値する。 動きに迷いとむだがないように見え、切り口の確かさを証しているように思えた。これらはヤザキのこれまでのソロ活動と、彼らが参加してきた「DANCE CIRCUS」などの合同公演で磨かれたものだとも言えるだろう。


ダンスマガジン

前田充

98年6月号より

(前略)まだ「深味」に欠けるきらいがあるが、動きの連動性の点で期待できる逸材である。その点でもうひとりをあげれば、「トリップ」のヤザキタケシである。 たまたま時空を共有した人間が展開する「動的世界」を描き出したが、現代のストリートダンス感覚を交えて多彩な展開をみせた。洗練されれば、一つの収穫となるだろう。

 

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